山嶺

メニュー

さあ、登るばい!!

ネパールヒマラヤ

ゴーキョピーク(5,360m)・ニレカピーク(6,159m)


福岡勤労者山岳連盟創立40周年記念海外登山

と き  2006年4月19日〜5月14日(26日間)
メンバー 田上和弘(フェニックス) 山口善暉(あだると) 岡 新二(みどる)
      西嶋正司(大牟田ハイキング) 吉田捷利(あだると) 島松尚宏(油山)
      山口千絵子(想山会) 池田克己(山嶺)
(サーダー)ティカ (ハイポーター)プルバ、リラ
(ローカルポーター)8人 (コック)1人 合計20人
報告  池田克己

4月19日
騒乱・ゼネストのカトマンズに到着

福岡空港8:35発、関空経由にて18:10カトマンズに到着。当初予定していたタメル地区のホテルは、騒乱に巻き込まれる恐れがあったため、郊外のトラチャン民宿に変更された。

4月20日
外出禁止令のため、民宿に缶詰路上を埋め尽くすデモ隊、民宿の屋上から

全ての商店は閉鎖され、人通りもまばらで静かな朝。昼過ぎから外出禁止令が出ているにも拘わらず、市内のあちこちからデモ隊のシュプレヒコールが聞こえてくる。民宿の前面道路も次第にデモ隊で一杯になってくる。時々警備の警察・軍隊と小競り合いがある。私達はこの様子を民宿の屋上から見守っていた。夜は電気を消してローソクの灯かりで食事す。

4月21日
当初予定のピサンピークをニレカピークに変更

デモ隊の数は昨日より増え、収まる気配はなし。本日も民宿に缶詰。
ピサンピークへ通じる交通手段が、いつ再開されるか見通しがたたないため、ティカの勧めにより目的の山を、ピサンピークからエベレスト街道近くのニレカピークに変更することに決まった。その夜もローソクの灯かりで食事す。

4月22日
ポカラの飛行場騒乱のカトマンズを脱出

早朝6時、マイクロバスで宿を出て、カトマンズ空港であわただしく出続きを済ませ、18人乗りのルクラ行きに乗り込み、8時50分無事に到着した。ルクラの街はカトマンズの騒乱がうそのように平穏そのもの。ここでポーター8名、コック1名を雇い、約3時間歩いて今日の宿泊地パクディンに14時着。ポーターの担ぐ重量は約35kg。我々は5〜10kg。

4月23日
トレッキング開始

白く輝くタムセルク(6608m)パクディン(2610m)〜ナムチェバザール(3440m) 晴れ
朝起床時 脈拍78、血中酸素濃度91。 
7時20分出発、ドゥドゥコシ川を下に見て歩く。右手にタムセルク(6608m)が見え、12時頃になると前方の彼方にエべレストが見えてくる。
国立公園事務所手前の検問所では、警備の兵隊が我々が通り過ぎるのを見守っているだけで緊張感はなし。14時にナムチェバザールに着く。この街も平穏である。
到着時 脈拍109、血中酸素濃度77(下がってきている)


エベレストビューホテルにて4月24日
エベレストビューホテルへ

朝起床時 脈拍98、血中酸素濃度72
高度順化のため、近くのエべレストビューホテル(3780m)まで登る。
富士山とほぼ同じ標高となり、一番後ろからゆっくり登った。
ホテルからは、エべレスト、ヌプチェ、ローチェ、アマダブラム等などの山々がくっきり
と見え感激。  12時30分宿に帰着。
脈拍98、血中酸素濃度77。
午後からナムチェのみやげ物店を見てまわる。店先には、ノースフェイスのゴアテックスの雨具、ザックなどが並んでいるが、いずれもニセモノで雨にあえば一度で水浸しになるシロモノ。
ベース及びハイキャンプ用の食料と機材を調達す。
腹の調子が悪くなったので、夜寝る前に下剤を飲む。 
ナムチェバザールの町
4月25日
ラリーグラスの花体調悪く、きついきつい1日でした。
ナムチェバザール(3440m)〜モン・ラ(3970m)〜ポルチェタンガ(3680m) 晴れ

朝起床時 脈拍127、血中酸素濃度67(さらに下がってきた)
前夜、夜中にトイレに3回行く。腹の調子が悪く下痢が続く。 
気温14℃。モンラ峠のダラダラ坂をあえぎながら一番後ろから登る。モンラからは谷底の集落ポルチェタンガに下り、14時10分着。残雪が少しずつ出てくる。
脈拍108、血中酸素濃度69。
後日、田上さんの話によると、「今日の池田さんは青ざめた顔をして、この先どうなるのかな」と心配していたという。

4月26日
チョー・オユー(8201m)体調回復し、高度順化順調。
ポルチェタンガ(3680m)〜ドーレ(4010m)  晴れ

朝起床時 脈拍111、血中酸素濃度75。
下痢の症状は止まった。7時20分出発。登山道に雪が出てくる。前方にチョー・オユー  が見え出す。9時55分ドーレ着。
宿についてから、高度順化のため近くの丘(4230m)に登る。特に頭痛等はない。帰着後 脈拍95、血中酸素濃度85(大分改善されてきた)。   
午後は、宿の食堂でトランプゲームやギターを弾いて楽しんだ。夕方からみぞれ交じりの雪が降り出す。

4月27日
ニレカピーク(拡大写真)ぬかるみの道、目指すニレカピークが見えてくる。
ドーレ(4010m)〜マッチェルモ(4470m) 晴れ 気温0℃

朝5時頃小用のため外に出てみたら、雪は止んで、満天の星空の中に天の川が帯状になって
見えた。かなり冷え込んでいる。朝起床時 脈拍78、血中酸素濃度82。
7時20分出発。昨夜の雪が溶けてぬかるみの道が延々と続く。マッチェルモの手前の峠から目指すニレカピークが見えてくる。マッチェルモに11時20分着。高度順化のためマッチェルモピークの中腹(4800m)まで登る。帰着後 脈拍122、血中酸素濃度76 
特に頭痛などはない。

4月28日
ゴーキョピークにて(右は岡さん)気温マイナスとなり冷え込んでくる
マッチェルモ(4470m)〜ゴーキョ(4790m)晴れ 気温マイナス1℃

朝起床時 脈拍79、血中酸素濃度72 
昨夜、鼻が詰まってよく眠れなかったためか、今日はきつかった。空気がかなり乾燥しているようで、鼻と喉の調子が良くない。
7時25分出発し、
ゴーキョに11時45分着。午後から高度順化のために近くの丘(4850m)に登る。
帰着後 脈拍92、血中酸  素濃度82
ゴーキョはリゾート地の
ようで、ロッジの設備は清潔で整っている。

4月29日
ゴーキョピーク(5380m)に登る
ゴーキョ(4790m)〜ゴーキョピーク(5380m)〜ゴーキョ〜ターガ(drgnag 4700m)晴れ

ゴーキョピークからの展望 エべレスト・ヌプチェ・ローチェ・マカルー4時起床、5時15分出発。
今日は5000mを越えることになるが、高度順化はうまくいっているようで、以外に簡単にゴーキョピークの頂上に立つことが出来た。
頂上は各国のトレッカーでにぎわっていた。360度の展望を楽しんで下山。10時35分宿に着。脈拍88、血中酸素濃度74。
午後からゴツンパ氷河を越え、対岸のターガまで歩く。ここの氷河は表面の氷は溶けて、
大岩がごろごろしている中を、アップダウンしながら越えて行く。
ターガの宿に15時20分着。夜はかなり冷え込みダウンを着て寝る。
桃源郷のようなターガの集落
4月30日
高度順化のため休息日

今日は高度順化のため休息日。田上さんと千絵さんとハイポーターはベースキャンプへテントを張りに行った。

5月1日
いよいよベースキャンプへ、 
目指す山は厳しい状況となっていた。
ターガ(drgnag 4700m)〜ベースキャンプ(5200m) 晴れ
ベースキャンプへの登り
ターガを8時出発。岩と雪がミックスした登り。右手の方にカラパタールに通じるチョラ峠(5330m)をフランスのパーティーがゆっくりゆっくり登っているのが見える。11時45分ベース地に到着。雪はあまりなく岩が露出している。
ベース地には、日本の長野隊(山田隊長、女性主体のチーム)がテントを張っていた。この長野隊もニレカピークを狙っていた。
私達はテント設営後、高度順化のために近くの丘に登る。
ベースキャンプ地
まもなくハイキャンプ地まで行ってきた田上さんと千絵さんがベースに戻ってきた。
田上さんの話によると、ハイキャンプ(5560m)から上は、氷河上の雪が吹き飛んでブルーアイスの堅い氷に覆われており、かなり厳しい登攀になると。
夕方、長野隊がハイキャンプからベースに戻ってきた。皆疲れた様子で、最後尾の女性は両肩を抱きかかえられて、よれよれになっていた。

長野隊の山田隊長の話によると、今年の夏は雪が少なくて風が強かったので、氷河上の雪がなくなってしまい、ハイキャンプから上はスクリュードライバーも通さないような堅い氷に覆われていたので、ハイキャンプから上に登るのは無理と判断して下山してきたとのことであった。
登頂できるのかどうか、心配になってくる。夕方から雪が降り出したので、時々テントに積もった雪を叩き落しながら寝た。テント内は冷え込み、足裏にホッカイロを張って寝た。

5月2日
ハイキャンプまで往復す
ベースキャンプ(5200m)〜ハイキャンプ(5560m)〜ベースキャンプ(5200m)晴れ 気温マイナス10℃ 
氷河の末端でアイスクライミングの試登
朝起床時 脈拍93、血中酸素濃度71。
今日は高度順化も兼ねてハイキャンプまで登り、テントを張ってベースに戻ってくる日。
ハイキャンプに上げる装備を確認して、9時
15分出発。時々、岩が落ちて来るガレ場を
トラバースして、氷河の末端の所で休憩。
薄くなった空気のために、あえぎあえぎながら、ゆっくりゆっくり登る。13時5分ハイキャンプに着き、息を切らしながらテントを張ったあと、ベースに16時に戻る。少し頭痛がするのでセデスを飲む。

5月3日
全員ハイキャンプへ移動、夜は息苦しくてよく眠れない。
ベースキャンプ(5200m)〜ハイキャンプ(5560m)晴れ
ハイキャンプへの登り
ベースキャンプを10時に出発。ハイキャンプでの宿泊装備と登攀装備を担いでの登りは、苦しくてあえぎあえぎながら登る。
13時35分ハイキャンプに着き、テントを1張増設す。
ハイキャンプ(5560m)の朝テント設営後、頂上へ通じる1ピッチ目をフィックスロープを利用して登ってみるが、堅い堅いブルーアイスの氷にアイゼンの歯が立たず、苦労してやっとのことで登りこむ。
1ピッチ登ったところで、ガスが出てきたので今日はそこまでとし、懸垂で下りた。
先発隊(田上、千絵、ハイポーター2名)は、頂上近くまでフィックスロープを張ったあと、17時頃にハイキャンプに戻ってきた。
夜、テントの中は息苦しくてしばしば目がさめ、深呼吸をして寝る。また目覚めて深呼吸して寝るということの繰り返しとなる。

5月4日
いよいよ頂上へのアタック日 
カンテ状の稜線を登る先発隊員
天気は晴れ、絶好のアタック日和となる。
隊員各人の体調、及び装備を考え各人の要望を出し合い、次のように班分けすることになった。 私は、持参した縦走用のアイゼンでは、長く続くブルーアイスを登りきるのは難しいと判断して
2班を希望した。
1 田上、千絵、ハイポータ2人 → 頂上を狙う。
2 池田、吉田、ハイポーター1人 → 登れるところまで登る。
3 山口 →  ハイキャンプに残り1、2班を待っている。
4 島松、西嶋 → ベースキャンプに戻る。
ハイキャンプから頂上までは、標高差で約600m、距離にして約1,200mあり、そのうち700mが雪と氷と岩のガレ場、500mがブルーアイスの氷となっている。

リードしてくれたサーダーのティカ6時40分、出発。1ピッチ目のブルーアイスは昨日登っていたので昨日よりは楽に登りこみ、2ピッチめ以降のガレ場は、池田、吉田、ティカがアンザイレンして、2〜3歩登っては休み、また2〜3歩登っては休むことを繰り返しながら登ってゆく。

前方に先行した1班がブルーアイスに取り付いているのが見える。ガレ場を過ぎていよいよカンテ状のテカテカ光った青氷の斜面に入る。
斜度は日本の白馬岳主稜の頂上直下の斜面ぐらいはありそう。アイゼンを青氷に蹴りこむが、縦走用のアイゼンでは跳ね返されるだけで、何度も何度も繰り返すので、息が切れて心臓が飛び出すようだ。こんな状況では体力を消耗するばかりであり

カンテのところはブルーアイスが続く標高5,830mの地点で「これ以上登るのは無理である」ことをティカに告げる。
吉田さんはもうすこし頑張ると言って登られたが、50mほど登った所で、やはり無理と判断して下山することになった。

下山はフィックスロープを利用して懸垂下降で下る。フィックスロープは8〜9mmの
ナイロン製のロープのためスルスルすべるので、ザイルを力いっぱい握っている必要があり、下降もきつかった。


10時35分ハイキャンプに着く。疲労困憊して動くことが出来ず座り込んでしまった。
11時37分、田上さんから「あと30分ほどで頂上に着く見込み」との無線連絡あり。
12時1分、岡さんから「全員登頂した」との無線連絡あり。
ティカをハイキャンプに残し池田、吉田、山口はベースキャンプに戻ることとし、12時8分出発。下山途中頭痛がしてきたのでセデスを飲む。
ベースキャンプにて
登頂は出来なかったが、自分なりに精一杯頑張ったという感情が高まったためか、歩きながらとめどなく涙が出てきた。
又、ああこれで終わったんだという安心感で緊張が解けたためか、疲れがドッと出て、ガレ場のところでは山口さんに先導してもらって、やっとのことで14時40分ベースキャンプに着く。

17時15分田上さんから「5名全員無事にハイキャンプに戻ってきた。本日ベースキャンプまで戻るのは無理であり、今日はハイキャンプに泊まり明日ベースに下る」との無線連絡あり。
その夜は、食欲はあまりなかったが、疲れのためか良く眠った。

5月5日
登頂した3名の疲労度激しい

ハイポーターのプルバとリラ朝食後、個人装備、共同装備を点検。11時15分に
登頂した3名とポーターがベースに戻ってきた。抱き合って登頂を祝福す。しかし、3名の疲労度はかなり激しいので、なるべく早く低い所に下ったほうが良いとのことで、テントを撤収してターガの宿まで下ることにした。

14時20分ターガに着く。
到着後、雪が降ってきた。夕食は、ビールで乾杯し、島松さんが持参してきたウイスキーやチャン(日本のどぶろくのようなもの)を飲み、キッチンボーイが作ってくれたピザ、ヤクステーキを腹いっぱい食べた。夜は、疲れのためか朝までぐっすり眠った。

5月6日〜9日
登りと同じ道を、ラリーグラスの花を見ながらルクラまで戻った。
白い花のラリーグラスのトンネル

5/6ターガ〜マッチェルモ 
5/7マッチェルモ〜ポルチェタンガ
5/8ポルチェタンガ〜ナムチェバザール
5/9ナムチェバザール〜パクディン

5月10日
ポーターとのお別れ会
ルクラの宿に12時に到着。
到着後雨が降り出した。どうやら雨季にはいった様である。
夜は、19日間行動を共にしたポーターとのお別れ会をした。

5月11日
平穏になったカトマンズに戻り、私の誕生祝い

私の誕生祝早朝から雨が降り、飛行機が飛ぶかどうか危ぶまれたが、何とか8時20分に離陸し、カトマンズに戻った。
ネパールの政変は、私達がカトマンズを離れている間に、広範な民衆の力により国王が退いて、議会派が実権を握ることで合意がなされていた。そのため、カトマンズの町は平穏に戻っていた。この騒乱で19名の民衆が死亡したとの話を聞いた。
今後、民主化がすすみ、ヒマラヤの山中にいるマオイストもいなくなり、平和なネパールになって行くことを切望する。
トラチャン民宿の屋上で、共同装備の点検とテント干しを行った。
この日は、私の62回目の誕生日。わざわざバースデーケーキを用意してもらい、同じ宿に宿泊しておられた全国連盟の近藤さんも含めて、誕生日を祝ってもらった。

5月12日 
ティカ宅で盛大なお別れパーティー

この日は、カトマンズのスワヤンブナートとボダナートという寺院を観光し、午後からはタメル地区で買い物をし、夜はサーダーのティカ宅で、盛大な送別パーティーをしてもらった。
送別パーティー

5月13日
宿で荷物の整理をし、夜の便でカトマンズを発ち日本に帰った。

感想

● 県連40周年記念海外登山として、8名の隊員のうち3名が登頂できたことは、成功だったといえる。その3名は、40〜50代の年齢で基礎体力もあり、アイゼンも氷雪用のものを装備していた。私も含めて60歳代の他の5人と比べて、全ての面で勝っていたといえる。
● 6000m近くの山になると、山頂付近は氷に覆われており、氷雪登攀技術とそれなりの体力が必要とされることを痛感した。今の私の体力では、6000m級の山に登頂できる状況にはないことを思い知りました。
● ツアー登山ではなく、自分達で計画し、準備してゆく今回の登山は、非常に勉強になった。特に、装備担当となって、出発前から帰国するまでその任務の重大さも学んだ。
● 丁度、ネパールの民主化の嵐が最高潮に達した時期にカトマンズに入ったので、民衆の大きな力で世の中が変ってゆくのを、肌で感じることが出来たことも付け足しながら良かった。  

費用は全部で約50万円。






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送